「おから」という存在    2015.5.29


 今日、豆腐のおからを買ってきました。
 人参、ネギ、牛蒡、油揚げ、ネギ、カブの茎
 を入れて、母と炒めました。
 めんつゆがあると、たいていの料理はできあがります。

 豆腐も好きですが、おからの方が好きかな!
 見方を変えれば、
 豆腐は、おからの「から」です。
 どちらを「から」というかは、分かりませんが……。

 かつて、ガソリンは、石油の「から」でした。
 どうしようもない残り物でした。
 それが、車というものがエンジンを持って動くことになって、
 石油は、重油や軽油よりも高いものとなってしまいました。

 かつて、牛タンは、牛肉の「から」でした。
 だれも食べない部位でした。
 それが、おいしいとなると、高級食材になって、
 店頭で華やかに存在しています。

 そう言えば、
 フカヒレって、サメ本体から見れば一部の部位です。
 でも、存在価値は、本体よりもヒレの方にあります。
 ヒレをとった後のサメが、生ゴミになるとすると、
 ヒレを外した本体が「から」となります。

 物の価値とは、こうした相対的なもののようです。

 受粉するための受粉樹として日本に渡ってきた食べ(たく)ない「ラ・フランス」が、
 その後の科学の進化(食べ方の進化)によって「おいしい」と分かると
 高級食材になっていることを見ても
  人間の見方で決まってしまう「物の価値」には驚かされます。

 「から」というある面否定的な見方が、逆転される瞬間に
 快感を感じます。