現場教師からの「校内研修」改革論――小学校    

   自分の授業を創るため

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│ 授業研究を中心とした校内研修は、自分の授業を創るために行うものである。 │

│ 学校全体の研究を深めることはあってもいいが、それが目的ではない。    │
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 校内研修をすることによって、他の教員と交流し学び合う結果として、自分の中に成長がなければ、どんなに全体としての研修成果があっても意味のないことである。
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 山田久志氏は、WBCでピッチングコーチとして指導するにあたって、野村監督から田中選手への指導を直接頼まれた。にも関わらず山田氏は、

 野村監督の理論が、ピッチャーの配球は、「困ったときは外角低めを狙え」
であることを知りながら、

 あえて自分の考えである「困ったときこそ、真ん中の低めを狙え」

を田中選手へ指導したという。
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│なにが正解だとは言えない。わたしの助言がこれからプロで飯を食っていく │
│ためのなんらかのヒントになればいいと思った。正解は自分で探すものです。│
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      「世界一の方程式」山田久志著 ベースボール・マガジン社新書

 大人の教師同士の学び合いの場、授業研究を通しての校内研修には、山田氏の視点が必要だ。
 授業研究などの校内研修の場を、みんなで何かを創り上げる場
とするのではなく、
 個が自分の授業を創り上げる切っ掛けとなる共有の場
とするのである。
 野村監督の理論を極めるのか、山田氏の理論を極めるのかではなく、2つの理論を知り、自分なりの、自分にあった答え(理論)を探していくことが大切なのである。

 思い出せば、ひと昔まで、ひとつの学校、ひとつの公開授業で、その学校独自の指導過程のパターン化をめざす動きが多くあった。わずか数年で結果を出さなければいけない学校研究の場合、無理なことは明らかなのであるが、「研究」の名の下に、何かを作り上げなければならない、または、そうすることが「研究」なのだという風潮があったことも事実である。
 そこから生まれたものは、打ち上げの席での努力の認め合いの話題とはなっても、創り上げたものが継続した取り組みとして残っている事実を私は知らない。

 

 校内研修の位置づけ
 校内研修の位置づけについては、様々な考え方があるであろう。
 伊藤功一氏は、教育研究所や研究者たちが行っている「研究」ではなく、実践者としての「授業の創造」に向かうための努力の過程を校内研修に位置づけ、
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│ 校内研修でめざすところは、「自分の授業を創る」ことである。 │
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          伊藤功一「校内研修」国土社の教育選書24
と、まとめる。
 学校で行うのは研究ではなく研修である。

 

 だれのために?
 研修は、
「子どもたちのために」
「教師である己のために」
 どちらかと問われれば、どう答えるであろうか。
 研修の成果を子どもの変容に見いだすことはあってもいい。しかし、それをもってすべてとしてはいけない。どうしてそうなったのかを、教師自身が自ら意識し、自分の授業を創る過程にしっかり位置づけなければならない。それが、新しい子どもたちとの出会いの場でも生かされることにならなければならないのである。
 校長である伊藤氏は、教師である己のために努力する研修が、ひいては子どもたちのためになるのだという考えに立ってほしいと、先生方にお願いしたという。
「子どもたちのために」
という聞こえの良いことばだけでは、真の研修は行えないようである。

 

 自分発
 成果をどう生かすか、というよりは、校内研修の成果をどこに位置づけるか。それが可能な校内研修の形態は何か、そちらの方が重要に思えてならない。
 では、どういう形態が良いか。
 今のところの私の考えは、個人テーマによる校内研修をまず一度は経験してみること、である。
 この方向で進めると、仮説やテーマが各自違うことに不安を覚える教師が多い。子どもが、クラスが、それぞれ違うように、その子たちを前にした教師の仮説も当然違って然るべきという見地に立つのは意外に難しいようだ。このような視点に立つ人の多くは、校内研修の成果を「学校全体の研究の深まり」に求める傾向が強い。
 現在の学校現場においては、仮説がみんな同じであること、同じ方法をとることなど、横並びで安心して他者に合わせるのではなく、成果を他人任せにせず、問題発見力・分析力・課題設定力・自己解決力・自己評価力を自分の中に位置づける力が求められている。
 私は、校内研修の成果を、これら個々の教師の力量の向上に位置づける。
 「自分の授業を創る」である。
 つまり、校内研修の成果は、最終的なまとめで示されるものではなく、過程における教師一人一人の学び、それらが、自分の授業を創る過程として機能しているかで決まる。
 勿論、どのような形式にも長所短所はある。全体テーマと個人テーマのどちらが良いかではなく、どちらも経験して初めて両者の良さが理解できるようになるものだと思う。
  平成14年度、転任後の新任校で研究主任を仰せつかった。二年目、個人研究による校内研修を行うことにした。最初は、仮説を自ら設定すること一つの理解さえ得がたいスタートであった。
【自分で決めてもいい。】
という自由への馴染みにくさの実感は、ふと子どもたちに投げかけている
「自由にしてもいいんだよ。」
という教師のことばの意味を振り返させられることにもなった。
 そこには、責任が必要となる。
 自由における責任の意味は、自由だけが取りざたされ、責任を忘れてしまったような現在社会において、自分の授業を創るために一番必要とされることなのかもしれない。

 

 現在の勤務校での校内研修
 私は、研究主任の長谷川主幹を中心に5名で構成される研究部員に属する。
 今年度の研究のテーマは、
「発見と創造のある授業」(二年次)
~基礎・基本の力を体得し、自らの学びを創る子どもの育成~
である。
 授業研究は、
 年3回の全体研究(全職員で授業を参観し、事後の研究会を行う。)と、
 年6回の部会による研究(国語・立命、算数、社会・理科・生活・ロボティクス、音楽・図工・体育、英語の5部会) 
で行っている。
 全体研究で校内全体の研究の骨子を設定し、少人数での部会でより多くの意見を出せるようにという長谷川主幹の方針により、昨年度から取り入れられた。
 部会による研究は、同じ日に5部会が授業研を行い、事後研を行う。二時間目に算数部会、三時間目に英語部会などと時間をずらして授業を行うため、部が違っても自由に参観することができるようになっている。
 事後研で定期的に部会毎の話し合いの時間が設定されていることもあって、毎年2月上旬に行っている公開授業研究会へ向けての準備もしやすくなっている。
 私は、学年4クラスの本校にとって、また、研究のテーマが何であれ自分の目指す授業を求めて多かれ少なかれ「我」を持つ教員集団である本校にとっては、現方式の授業研究が一番効率的であると思っている。

 

 最後に
 この年になって、授業研究については、教師の年代で違うことが見えてきた。
 二十代は、見て学ぶ。やって気づく。
 三十代は、自分の目指す授業者を見つけ自己研鑽に励む。
 四十代は、自分の授業を創りあげる。
 同じ視点には立てない。
 校内研修の成功は、研修テーマの達成ではなく、あくまでも個々の教師の学びの中になければならない。
 つまり、異年代での集団が母体となっている教員間では、みんなで何かを創りあげるということよりも、伝え合うというところに意味をおくべきである。

 

 私は、三十代前半、有田和正先生の授業を見て「こういう型の授業もあるのだ。」と教えられ、それ以降、授業のオープンエンド化・日記での追究を実践の核としてきた。
 勿論、その時々の校内研で学ぶことはあった。だが、筑波での授業参観、著書、講演で有田先生から学んだことの方が大きかった。
 その後も、
 高洲南小の鈴木惠子先生、
 奈良女の大津昌昭先生、
お二人の授業から多くのことを学ばせて頂いた。
 校内研でどのような教科になろうとも、有田先生のオープンエンド、鈴木先生の子どもの看取り、大津先生の子どもとの接し方を忘れずに取り組んできた。そして、どのような教科でも応用できるものだと教えられてきた。

 

 今にして思えば、私が研究主任として、それまでの研究を個人テーマによる研究に変えたのは、当時40才になったばかりの私は、自分のやりたいことがあり、その実現の場を求めていたからかもしれない。研究主任が自分のしたいことだけを考えていては困ったものだが、佐藤学氏の反省的実践をもとにした個人研究は、楽しかった。ビデオを見ながら子どもの姿から学ぶことの意味を実感できたことなど、少なくても、同僚の先生方にそれまでにない新しい刺激を与えることができたとは考えている。

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│ 全体テーマで取り組めば、学校全体の研究は深まる。                     │
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 これは、方法であり目的ではない。他力では自力は伸びない。
 しかし、一つのテーマでの教員間の交流は、わかりやすさ・伝えやすさでは意味のあることである。
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│ 個人テーマで取り組めば、テーマ作成など自己責任のもと個人の力量が高まる。    │
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 自分だけ良ければいいのではない。独断に走ってもいけない。経験の少ない者が急に個人テーマでと言うのは無理もあろう。
 経験を積んできた者が、それなりに若手の先生方に伝えていくには適した方法であろう。しかし、「これがよいからこの通りにやれ」ではなく、前述の山田久志氏のようでありたい。
 どちらも長短がある。
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 授業者として生きるということは、自分の授業を創るというテーマに向かって退職まで研究し続けることである。どんなテーマの研修に出会おうとも、それは方法であり、目的ではないという意識の改革が求められる。
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 本稿をまとめるにあたって、5年前の本誌4月号【「授業力」を鍛える校内研修の再構築】での「個人研究を校内研究の中核に」を読み返し、校内研修に対する自分の考えが変わっていないことを感じた。
 公立校でも私立校でも、学校を変わっても、東北でも関西でも、求めるものは変わらないと気づかされた。
    授業研究21(明治図書)2009 11月号