校内研修の成果をどう生かすか

      まず個人テーマによる研修を

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│ ひとつの研究主題にそって、公式どおりの手順をふめば、その努力のいか│
│んを問わず成果が出てくるものだという思いこみと、もっと極端ないい方を│
│すれば、成果が出てこなければならないという考え方を前提にしているとい│
│ってもよいのかもしれない。だから、わたしたちはいつのまにか、成果とは、│
│主題を追求する多くの努力の累積の結果として生まれたものでなければなら│
│ないものを、しかるべく手順をふめば、このような成果があがるはずである│

│という決めつけによって、あらかじめ成果なるものをつくっておいて、その枠│
│のなかに研修をあてはめるという、いわば結論がさきにあって、事実をそれ│
│にあてはめる研修を、なんの疑念ももたずにつづけてきたのではないかと思│
│うのである。                                            │
└────────── 伊藤功一「校内研修」国土社の教育選書24────┘ 
 このような研修の成果を、成果と位置づける研修そのものに問題がある。
 ひと昔まで、ひとつの学校、ひとつの公開授業で、その学校独自の指導過程のパターン化をめざす動きが多くあった。わずか数年で結果を出さなければいけない研究の場合、無理なことは明らかなのであるが、「研究」の名の下に、何かを作り上げなければならない、または、そうすることが「研究」なのだという風潮があったことも事実である。


 校内研究の位置づけ
 校内研究の位置づけについては、様々な考え方があるであろう。
 伊藤功一氏は、
 教育研究所や研究者たちが行っている「研究」ではなく、実践者としての「授業の創造」に向かうための努力の過程を校内研修に位置づけ、
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│ 校内研修でめざすところは、「自分の授業を創る」ことである。  │
└───────────────────────────────┘
と、まとめる。
 足元を見直す重い言葉である。

 

  だれのために?
 研修は、
「子どもたちのために」
「教師である己のために」
 どちらかと問われれば、どう答えるであろうか。
 研修の成果を子どもの変容に見いだすことはあってもいい。しかし、それをもってすべてとしてはいけない。どうしてそうなったのかを、教師自身が自ら意識し、自分の授業を創る過程にしっかり位置づけなければならない。それが、新しい子どもたちとの出会いの場でも生かされることにならなければならないのである。
 校長である伊藤氏は、教師である己のために努力する研修が、ひいては子どもたちのためになるのだという考えに立ってほしいと、先生方にお願いしたという。
「子どもたちのために」
という聞こえの良いことばだけでは、真の研修は行えないようである。

 

 自分発
 成果をどう生かすか、というよりは、校内研修の成果をどこに位置づけるか。それが可能な校内研修の形態は何か、そちらの方が重要に思えてならない。
 では、どういう形態が良いか。
 今のところの私の考えは、個人テーマによる校内研修を一度は経験してみること、である。
 近年、個人研究形式による校内研修が多くの学校で行われている。
 この方向で進めると、仮説やテーマが各自違うことに不安を覚える教師が多い。子どもが、クラスが、それぞれ違うように、その子たちを前にした教師の仮説も当然違って然るべきという見地に立つのは意外に難しいようだ。このような視点に立つ人の多くは、校内研修の成果を「学校全体の研究の深まり」に求める傾向が強い。
 現在の学校現場においては、仮説がみんな同じであること、同じ方法をとることなど、横並びで安心して他者に合わせるのではなく、成果を他人任せにせず、問題発見力・分析力・課題設定力・自己解決力・自己評価力を自分の中に位置づける力が求められている。
 私は、校内研修の成果を、これら個々の教師の力量の向上に位置づける。
 「自分の授業を創る」である。
 つまり、校内研修の成果は、最終的なまとめで示されるものではなく、過程における教師一人一人の学び、それらが、自分の授業を創る過程として機能しているかで決まる。
 勿論、どのような形式にも長所短所はある。全体テーマと個人テーマどちらが良いかではなく、どちらも経験して初めて両者の良さが理解できるようになるものだと思う。
 本校では、個人研究による校内研修が行われてから二年が経過した。最初は、仮説を自ら設定すること一つの理解さえ得がたいスタートであった。
【自分で決めてもいい。】
という自由への馴染みにくさの実感は、ふと子どもたちに投げかけている
「自由にしてもいいんだよ。」
という教師のことばの意味を振り返させられることにもなった。
 そこには、責任が必要となる。
 自由における責任の意味は、自由だけが取りざたされ、責任を忘れてしまったような現在社会において、自分の授業を創るために一番必要とされることなのかもしれない。


 授業研究の方法
 従来の、どの教室にも応用可能な「一つの真理」を追求する「技術的実践」から、「一つの事例」を対象としてその教室でしか成立しえない「一つの出来事や経験」に対する「多様で多義的な認識」を追求する「反省的実践」への授業研究の流れも見えてくる。
            参照 稲垣忠彦・佐藤学「授業研究入門」岩波書店

 授業研究21(明治図書)2004 4月号