子どもの悩みや不安を見抜く眼とは 
   小さなしぐさから

 

①一瞬の子どもの反応
 子どもが教師から叱られるような言動をしたとき、その一瞬の子どもの反応に敏感になりたい。
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 嘗て、ある一年生のクラスの授業を参観していたときのことである。定規を手にした子が、手遊びの果てからか、その定規を折ってしまった。
 私は、その子の席の近くにいた。
「大丈夫? 怪我はない?」
小さく声をかけた。
 こうした場合、多くの子は、折れた定規をもとの形に戻してみるものだ。一年生であれば、尚更のこと。そうすることがその「物」への思い入れとなって現れる。
 破片があれば、その後の怪我にもつながることになる。教師の立場としても当然確認すべきことである。
 しかし、その子の反応は違った。
 目線は、授業者である担任に釘付けになっていた。それまで以上のすごい緊張感が漂っていた。しかし、手はしっかりと折れた定規を隠すように机の中にしまっていた。
 定規が折れてしまったことよりも、教師から叱られることへの恐ろしさが大きかったのであろう。他の子も同じようにその教師への姿勢を保っているように見えた。
 形上の規律を保てば保つほど不健康な子どもが育っていく。教えるべきことは、事の善悪で、教師の顔色を伺いながら従順に指示に従う生き方ではない。
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 当然、我が身を振り返ってみる。
 私のクラスで同じように定規を折る子がいたらどうなるのであろうか。
 折れてしまった長い定規をセロテープでつなげて使っていた子のことを思い出した。使いにくそうにしていたので私のものを貸してあげたら、数日して新しい定規を買ってもらって使っていた。
 私のようにあまり緊張感を与えない教師もどうかと反省しているが、過度の緊張感を与える教師は良くない。子どもの悩みや不安を見抜く前に、存在そのものが悩みや不安となってしまう。
 そもそも、こうした教師は、子どもの悩みや不安を見抜く眼など持ち合わせているのであろうか。 
 では、次のような場合は持ち合わせていると言えるのであろうか。
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 私のクラスの子と上の学年の子が、ふざけあって道路で転んでしまったときのこと。その時の様子の言い分が子ども同士で違った。低学年の場合、得てしてこういうことがある。どちらの言い分も聞き入れなければならない時がある。どちらかが誤解をしていることもある。時として本当に忘れてしまっていることさえあるのである。
 相手に向かって自分の言い分を言う子はいい。相手の子の顔など見もしないで、ただひたすら自分の担任に訴える子がいる。

 二人の子と担任が入って話をした時のこと……上学年の子は自分は全然悪くないことを主張するのだが、どう見ても私には担任の顔色を伺いながら訴えているその子の姿が不思議でならなかった。案の定、その担任も自分のクラスの子をかばい通した。
 私は、その場にいるのさえ嫌になった。
 子ども同士の問題が起こると、その子の成長のための絶好のチャンスと捉え、指導していくのが教師である。この場合は、自分の指導力不足を問われることを恐れ、子どもの不安や悩みに共に向き合おうとせず、責任回避、原因の所在からの逃避で、その子をかばうことを通して子どもの悩みや不安を一時的に誤魔化したのである。
 この場合も、指導をしたという教師の自己満足だけで、子どもの悩みや不安を見抜く眼とは関係ないようだ。

 

②いつものその子を看取る目
 私は、毎朝、クラスのオープンスペースで、登校した子から提出された宿題や日記帳を読みながら、子どもを迎える。
 担任をして一ヶ月もすると誰が一番に教室に来るか、大きな声であいさつをするのは誰か、眠そうに入ってくるのは誰かが分かるようになる。
 いつもとの違いに気づいたとき、一言声をかける。
 お母さんが仕事で家にいなかったり、習い事で前の日に寝るのが遅くなったり、朝出がけに家で叱られたり、友達関係がうまくいっていなかったり……子どもはいろんなことに敏感である。そんな子の「身体」が「声の変化」になって表れる。
 子どもが朝教室に入ってきたときのあいさつの声で、その子の体調の悪さを見抜いたという有田和正氏の実践を読んだことがある。
 それは神業であると思っていたが、私は、昨年度一度だけ偶然に同じような経験をすることができた。
 背中から聞こえた元気のない声に、ランドセルをそのままにして、保健室に連れて行った。熱は少しあった。保健室で休ませているうちにますます熱が上がり、保護者の方に迎えにきてもらった。
 たまたま私の体調が良く、敏感に反応することができた偶然の出来事である。
 子どもの不安や悩みを見抜く眼とは、普段の子ども一人一人の様子をどれだけ看取っているかに関わる。いつものその子を看取る眼があってこそ、悩みや不安を見抜く眼が問われるのだ。
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「子どもの悩みや不安」と教師は考える。しかし、子どもだって感じている。教師の悩みや不安をである。必死になって向き合おうとする教師の熱意と誠意がなくなったとき、子どもの目は鋭い。 
 見よう、見つけようと一歩踏み込む前に、どっしりと構えて、不安を伝えたくなるようにすること、親身になって受け入れることが大切ではないかと、年をとったこの頃、やっと思えるようになってきた。

 

 心を育てる学級経営(明治図書)2007 5月号