学級教育改革のための提言

 子ども同士のつながりを!


 クラスの枠をはずして、学年で行うことが流行りつつある。それは、子ども同士の幅の広い交流を図るためにだと言う。
 確かにそこに意味はある。
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 高学年の教科担任制が流行ろうとしている。それは、価値観の多様化に合わせ、多くの教師が多面的に子どもを捉えられるようにだと言う。
 もっともな理屈ではある。
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 クラスの枠をなくすこと、多くの教師で関わること。勿論、そのこと自体に意味はある。
 しかし、「学級」で学ぶことの意味を考えたとき、私にはどうしても「今の子ども」に対する対症療法にしか見えない。
 子どもを大切にするという錦の御旗を掲げての教師の自己防衛の姿が見え隠れする。
 友達関係が希薄だから、それによる問題が生じないように、教師の指導力不足が問題とならないように……広げて焦点をぼかしての自己責任回避である。
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「今までは授業のために仲間づくり、学級づくりと考えられてきたが、仲間関係を高めていくために授業があるのではないか。」
 1998年6月、筑波大学附属小学校での公開授業後、分科会での露木和男先生の言葉である。   

 この視点に立たれた露木先生の授業は、教師も子どもたちも実に自然体で、ある境地に達しているように思えた。
 子どもたちの一人一人の息づかい・思いが伝わってくる授業であった。
「仲間との対話」に喜びがあり、さらに「自分との対話」で自己を高めていこうとする子どもの姿がそこにあった。          
 学級とは、自分の生活を語り合い、共に学び合う場である。友との関わりの中で学習を行う場なのである。薄っぺらな知識を詰め込む、競争社会の縮図ではない。
 価値観の多様化は、お互いが認め会えるものでなければ、単なる自分勝手な我が儘にすぎない。
 友達との関係を高めようとすれば、まず友達との衝突は避けられない。いざこざは当然起こる。そこを乗り越えて行く過程にこそ意味がある。それらが学級の歴史となり、子どもたちに共有化されていく。その場が学級なのである。
 衝突を避けるため、効率よく行うため、前述の対症療法を用いてはいけない。
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 確かに学校現場には家庭・地域などから生じるものも含めて問題が山積みにされている。しかし、その中で、どれだけ「学級」としての機能を再生することができるか。それをこそ問うべきである。
 問われるべきは「学級」のあり方であり、その解体ではない。
 学級は、子ども同士のつながりを築く場である。安易に変えられる方法ではなく、永遠の目的なのである。

 「心を育てる学級経営」(明治図書)2000 6月号