「やまがた教育実践研究」第3号 山形大学教育実践研究会1999年6月

     キレる子どもたちの背景
       ───────  ストレス・規準・自己愛から ──────                

                                                       東根市立東根小学校  沼澤 清一

 

 キレる子どもたちの背景を3点から探る。
1.ストレスの中で暮らす
 現代の子どもたちの遊びの対象は、ブロック、人形、ゲームなど自分で操作しようとするとできるもの、つまり、自分の思い通りになるものが多い。
  人数も少人数化し、固定化しやすい。それ故に個々のつながりが深いかというと、そうでもない。一緒の場所で遊んでいるというだけで、一つの物で遊んでいるということではない場合が多い。友達の家に遊びに行き、それぞれがマンガ本を読んでいたり、ゲームをしていたりして、時間がくると三々五々帰っていく。それでも一緒に遊んだという意識を持つようである。
 これに対し、昔の遊びは自然や多くの友達の中で、自分の思い通りにいかないものばかりであった。
 つまり、今の遊びは、自分の思う通りに対象物を操作する技術的なもので、昔の遊びは、思い通りにならないことが前提としてあり、その中で悪戦苦闘し、時には堪え忍び、時には達成感に満たされるものと言える。
  自分の思い通りに行かないことに出会う、そういう場面が現代の子どもの生活の中に少なくなってきている。過保護もあって、子どもたちは、生きていくということは自分の思い通りになることと意識づけられている。例え出会ったとしても、そこからの回避が「自由」や「個性」の名の下に容易に行われているのが現状である。
 子どもは友達と一緒に過ごす中で、その力関係を意識しながら2つのストレスの中で格闘している。
    自分の思い通りに友達を動かそうとするストレス
    友達の思い通りにしないといけない自分のストレス
 友達関係はストレスの中でできあがっているのである。

 

2.規準不足
  対象物を思い通りに動かすことによって得られる自分を中心とした規準、それを変更することに子どもたちは慣れていない。自分の判断で規準を作り直すことができる子を育てていかなければならない。これらは、大人の子どもへの接し方に起因するところが大きい。
   子どもの行為 → 善悪
という直線的な指導によるしつけで、子どもに大人の価値基準に合う行動をとらせようとする。子どもの中では価値基準がつくられないまま、行動の変化だけを迫られる。
 また、過保護社会の常として、子どもの「自由」という名目でしっかり注意されるという場も少なくなってきている。自分の行為に対する注意を受け、自分の中で価値基準をはっきり育て、価値基準の編み直しをすることができないのである。
 柴崎正行氏(東京家政大学教授)は、山形大学附属幼稚園での対談「教師のあり方を多面的に探る」(1998.6.24)で子どもたちの心の叫び、すぐキレる、すぐ暴れる原因として、次の2つをあげている。
①「価値をはっきりさせてくれなかったり、注意されていない幼稚園時代を過ごした結果、小学生になって、してはいけないことははっきりしているが、注意される自分を受けつけられなくなっている。子どもの中に規準づくりをしていかなければならない。」
②「してはいけないことはわかるけど、柔軟に対応できない。知恵を働かせられない。規準がはっきりしているときはいいが、規準がはっきりしていない場面では、どうしたらいいかわからなくなる。みんなが静かにしているときは自分も静かにする。しかし、うるさくする子が出てくるとどうしたらいいかわからなくなる。」
   ①は、行為の結果としての判断でなく、「どうしてなのか」という判断する過程での規準を身につけさせることの大切さを述べている。 

   子どもの行為 → 善悪   ではなく、           
         子どもの行為  → 規準 → 善悪             
 ②は、その規準は、固定されたものではなく、絶えず自分の判断によって作り直していくことの大切さを述べている。
 社会全体での、子どもの身の回りの「思考」を「暗記」に変える作業、の存在。規準への自己吟味が欠落してくるのも当然のことかもしれない。

 

3.自己愛への欲求不足
  自己中心的な行動、友達を意識しない行動を目にすると、私たちは、「友達のことを考えなさい。」「自分だけではないんだよ。」と必要以上に他者を意識させてしまう。
「自分のことばかり考えるな。」という言葉の背景に、自分を大切にすることへの偏見がある。つまり、自分を大切にするということは、自分以外のものや人を大切にできるということより低次元のことで、自分→他者へと成長していくという見方である。
 岡村達也氏は、「自己愛としつけ」と題した論文で次のように述べ、自己対象を3種類で説明する。
                      <現代教育科学10月号(明治図書)1998 №504>
┌──────────────────────────────────────────────┐
│「自己愛から対象愛へ」「依存から自立へ」ではなく、                 │

│「未熟な自己愛から成熟した自己愛へ、未熟な対象愛から成熟した対象愛へ」│
│「未熟な依存から成熟した依存へ、未熟な自立から成熟した自立へ」である。   │
│自己愛と対象愛、依存と自立は、それぞれ前者は未熟、後者が成熟ではなく、│
│四者それぞれがそれぞれ未熟な形態から成熟した形態へのスペクトルをもつ  │

│という認識である。                                                                                                                     │
└──────────────────────────────────────────────┘
①鏡映自己対象………「ママー、見て! 見て!」という誇大感を受け入れ、すばらしい自分を賞賛してくれる自己対象。これによって自己の中に自己主張、野心、力と成功への志向が育つ。
②理想化自己対象………「パパはすごい!」という理想化、すばらしいと賞賛する自分の受け皿になる自己対象。これによって自己の中に理想、目標への志向が育つ。
③双子自己対象………「パパやママと同じだ!」という自分はほかのひとたちと同じ人間であり、同じ共同体の一員だと感じる体験をもたらす。
「これによって自己の中に才能や技能といった現実的な執行機能が育つ。こうした自己と自己対象との関係は自己の安定のために、発達段階に応じて親・教 師・友人・恋人・配偶者・恩師などのひと、あるいは勉強・趣味・仕事などのものやこととの間で、生涯を通じて必要である。」
  これが満たされなかった時にキレるのだと言う。
「キレル。現れは同じように見えても、自己愛・自尊心の傷つきによる反応として起こる自己愛憤怒と、目標に向かう際の障害を除去するための攻撃とは決定的に違う。前者は情け容赦なく残忍だが、後者は敵を不必要に傷つける要求はなく、目標が達成されれば静まる。前者は怒りを引き起こす人に対する対応が成功しても満足されず、傷も怒りも癒えにくい。昨今の耳目をそばだてる少年事件の底には、深い自己愛の傷つきが見える。それは対象に向けられた攻撃ではなく、自己愛の傷つきに駆動された対象なき攻撃だから、被害者に対して罪悪感もない。それがひとびとには不可解であるし不気味である。自己の修復、自己愛の成熟がはかられねばならないのであり、成熟した自己愛が育つ土壌が準備されなければならないのである。
 自己愛に対する偽善的な態度の克服こそ現代の課題のひとつであり、自己愛への欲求を否認せず、むしろその正当性を認めることこそ必要だろう。それは親とても教師とても同じである。」

 

 子どもが子どもらしさを失い大人化している、アダルト・チルドレン。日々の子どもの精神的緊張・精神的な疲労が「燃え尽き症候群」となって現れ、さらには感情や衝動の抑制ができなくなる状態、キレる現象につながる。三好邦雄氏は「まじめな親の子どもが危ない!」(飛鳥新社)で、遊びの必要性を訴え、ある種の適当さが子どもを助けることを「子どもたちよ、頑張ってはいけない」という言葉で語りかけている。 「まじめな教師のクラスが危ない!」と私には聞こえる。