「やまがた教育実践研究」第1号 山形大学教育実践研究会1996年6月
「授業作り」と「学級作り」
東根市立東根小学校 沼澤 清一
すばらしい学級・学校を見ることができた。やはり、すごい。
今年は、鈴木学級の自習の時間も見せていただいた。驚いた。今回は、どちらかといえば、国語の授業よりも、音楽の自習の方が印象が強かった。(昨年の6年生の授業が良過ぎたこともある。)
・教え合い学習が自習の時でさえ成り立っている。
・得意でない子が、進んで取り組んでいた。
・励まし合い、認め合い、高まっていた。
分科会で、鈴木氏が、「‥‥‥自習の様子などについても、ご感想は‥‥‥。」と言われた。そこまで視野に入れて指導されていることにあらためて気づいた。鈴木氏は、よく「私は、あまり考えていないので‥‥」と言われるが、私にはそうは思えない。かなり綿密に計画的に指導されているはずである。布石を打っておられる。
朝の会で、ことさら長縄集会の賞状のことを話されたことが心に残った。
授業終盤、朝の会での長縄集会の話は、ごんと兵十の分かり合えない関係につながるのだと気づいた。最初の長縄集会でのまとまらなかったクラス、友達関係を乗り越えての2位、その価値観を強調しておいたことを、授業とだぶらせて、ここで子供達の振り返る場としたかったのだと思った。時間がなくたくさんの意見は出されなかった。アレッサさんの隣の子(アレッサさんに一生懸命に世話をしたが、受け入れられなかった子)の涙で終わってしまった。この時間を2分間と言われた人がいたが、私にはもっと長く感じられた。この時、鈴木先生が何を感じておられたのか、個人的にお聞きした。「みんなが○○さんの気持ちが分かっていて、○○さんにつくと思ったので、私はアレッサさんによりそっていた。」あの長い時間、クラスの意識が高まる時間、そこに学級を作っていく鈴木氏の姿勢を感じた。あの長い時間に、鈴木氏のかくされた学級作りを見た。分かり合えなかった事実をみんなに意識させ、学級を築いていく。優しさの中に、厳しさを見た。もっとも、あの場合の被告アレッサさんが、内容をよく理解していなかったからこそできた、長い時間であったとも思う。
鈴木氏の朝の会の話が、あの授業の最後の布石になっている。
私は、そう思う。ドラマを作っていると思う。
鈴木氏は、意識したわけではないと言われるが、(全然意識していなかったと言われた)私は、氏独特の表現だと思った。あれが無意識と言われれば、鈴木学級は、すべて無意識のうちに作られたことになってしまう。
学級作りにおいて、鈴木氏は、かなりの布石を打たれている。昨年いただいた学級通信でもそれが良く分かる。年度当初は、子供達から問題を出させ、それをみんなと話し合い解決していくことから学級を作られている。
学級の問題を、全員で共有し合い、そこから学級集団の心をまとめ、育てあげている。
おそらく、問題が出てきた度に、あのクラスは団結が高まってきたのであろう。
昨年度の学級通信では『みんなが朝の歌を一生懸命に歌わないことを、係の子が涙ながらに訴え、クラスの歌を歌う姿勢が変わった』と書いてあった。鈴木氏は、だれかが、だれかに関わりを持つのを待っている。そして、その関わりをドラマ化していく。問題が出てくるのを待っているのである。 でき上がった鈴木学級だけを見ていると、なんと平和で温かいクラスなのだろうと思ってしまう。しかし、多くの問題を乗り越えてきての、現在なのである。
鈴木氏は、それをドラマ化し、振り返る時は、
「あの時□□は、ああだったけど、今はこんなに(良く)なったね。」
と、問題を起こした子を、認める場としてしまっている。
朝の会での、「□□君は、長縄の練習に混ざらなかったけど、今は一緒にがんばっているね。すごいね。」が、それだ。
今回、特に鈴木氏の強さを感じた。去年は、守ってあげたい程の繊細さを強く感じた。
担任する学年(4年生と6年生)の違いからくるものか‥‥‥。
やはり、あの授業の最後は、ドラマを振り返り、乗り越えてきた喜びを、みんなで感じる時間だったのだと思う。
○○さんの涙は、あの時間は、○○さんの努力をみんなに認めさせる時間だったのだと思う。
だから、鈴木氏は、待ったのだと思う。
他の子にも発表させれば、もっとたくさんの自分&クラスを振り返っての意見が出たであろうし、アレッサさんとのことにしても、他の子であれば参観者にも分かりやすい言葉で言えたはずである。 そこをわざと待った。
鈴木氏の非凡さは、そこにある。
昨年見せて頂いた築地久子氏の授業では、築地氏は、授業のポイントを△△君という男子にあてていた。一緒に参観した熊澤晃佳先生は、築地久子氏の授業から感じたことと題したレポ-トで、
┌───────────────────────────────────────────────────┐
│ 力があっても△△さん、あなたのところに襲ってこないような仕組みがあったわけ。 │
│もう自分には力がないんだよ。あいてはだまっているかなあ。復習されちゃうんでしょ。 │
│どうして倒れないの。 <築地久子氏> │
└───────────────────────────────────────────────────┘
↓
┌───────────────────────────────────────────────────┐
│ 子供へのメッセ-ジと受けとめられるが、その子は、その言葉を心深く受け止めたり、│
│感じ取ったりしているのだろうか <熊澤晃佳氏> │
└───────────────────────────────────────────────────┘
と書かれている。同感であった。築地氏の言葉は、かなり強烈であった。しかし、△△君に理解できたか?例え、彼が理解できたとしても、少なくても、彼意外の子には理解できなかったはずである。 今回の鈴木氏の最後の場面は、言葉はかなりやさしかった。しかし、あの場面で、おそらくクラス全員の子が、○○さんとアレッサさんの関係をとらえられたはずである。
「今日の授業は、高まらなかった。」(鈴木氏)
授業のどこを指して言っておられたのか。
私は、最後の場面を指して言っておられたのだと感じた。
もっともっと、分かり合えなかった事実をみんなから出させ、自分達の成長を意識させたかったのであろう。昨年度の、「川とノリオ」の学習で、自分達の生活を振り返り、感情が高まったように。 と、すれば、○○さんの発表を待った時に、鈴木氏の葛藤があったはずである。
私は、鈴木氏の授業・学級作りを目標としたいとは思うが、とても真似できるものではない。鈴木氏のあの母親的、女性特有の指導法を真似することはできない。あのような美貌と笑顔を持ち合わせていない私には無理である。しかし、その学級作り、取り分けあの授業の雰囲気は、これからも追究していきたいと考えている。
作り上げられた鈴木学級のすばらしさは今年も強烈であった。たった1年間(9か月)の担任で、あそこまで子供が育つことは、やはり、すごいことである。
来年度は、何とかして、作り上げていく過程の鈴木学級を見てみたい。ドラマ化しながら、問題を乗り越えて作り上げられていくその過程を。そこにこそ、鈴木惠子氏の真の姿があるのだろうから。