特集 どの子も大活躍 授業参観面白レシピ 保護者が信頼する参観授業のレシピ
    一年間の授業の流れの中で

 

1.参観授業の位置づけ
 本原稿の依頼文の中に「参観授業に駆けつける保護者は『自分の子どもを見にくるのだ』といわれます。」とあった。確かにそうした面があることを否定しない。また、その時間一時間に限っていえば、親の目とはそういうものであるとも言える。
 しかし、年間を通した授業の中に点在する保護者による参観授業の位置づけを、私は次のように考える。
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 一年生では、四月から生活科の授業や朝の会で、実物を提示しての話し合いを核に授業づくりを行ってきた。カタツムリを持ってきた子が実物投影機で大きく写しながら「昨日捕まえてきました。」と言葉少なに発表すると、「誰と行ったのですか。」「どこで捕まえてきたのですか。」という状況の問いの後に、「その角みたいのは何ですか。」「どうして目を引っ込めるのですか。」「それはオスですか、メスですか。」というカタツムリ自体に対する問いが生まれる。
 そこから生まれた「はてな?」の追究を学習日記の形で調べて書かせ、学習の生活化を図ってきた。
 こうした授業の記録、授業後の子ども達の追究の記録は、学級通信で個人名を入れ具体的な形で保護者に伝える。
 四月の学級懇談会では、このような生活科での「物」を通した話し合い、そこから生まれた追究が、やがて、「文字」を通した話し合い、つまり、国語の物語文の読解へとつながっていくということを説明する。
 最後の授業参観は、年度当初に保護者に示した、また、継続的に保護者に示してきた「子ども達との授業」を具体的に示す場にしなければならない。
 だから、最後の授業参観の位置づけは、他の参観授業とは違う。

 

2.教材「たぬきの糸車」(光村図書)
 私は、一年生を担任すると、最終的にこの教材で子ども達がどのように動くか、どのような読み取りになるかを一年間の自分の授業の評価としている。
 子どもたちが、たぬきやおかみさんになって動作化して表現することができるのは、個の力はもとより、学級の子ども達の温かいつながりがあればこそ。近くの席の子と意見を交わしながら自由に発表につなげていくことも、学級経営の質が問われるところ。
 学習とは、こうしたことを土台としてなりたっている。
 一年生でそこまで読み取らせる必要があるのかと言われることもあるが、子ども達をじっくり読解に浸らせたい。読み取るということの楽しさを実感させることのできるすてきな教材との折角の出会いである。
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 11年度最後の参観授業は2月22日であった。「たぬきの糸車」の最後の場面の学習を行った。
 まず個々の自由な音読に始まり、次に一文ずつ個人での音読。その後、教室中央に設定された舞台で、たぬき・おかみさん・ナレータの寸劇がお行われた。二回の劇を通してそれぞれの登場人物の動きの捉え直しが行われた。
 そして、前日の子ども達の感想に書かれた問題について話し合った。
【なぜ、白い糸のたばが、山のようにつんであったのか。】
については、冬の間にたぬきがずーっとやっていたということになった。
 ところが、次の三人の
①【なんで、たぬきのしっぽが見えたのでしょう。】
②【なんで、しっぽしか見えなかったのでしょう。】
③【なぜ、しっぽをわざわざちらりと見せたのでしょう。】
の違いについて話し合うと、子どもたちの発表は、「たぬきは、おかみさんに見られたくなかった」という視点でのものが続いた。見せたのではなく、見られちゃったという視点である。
 最後まで結論の見えない終わり方になった。

 

3.信頼を得られる参観授業
 本時だけの単発の授業、授業参観のための授業をどんなに楽しく、どんなに活発な活動を取り入れて行っても、見える人には見えるものである。本授業が前後の授業とどのようにつながり、位置づけられているのかということを。
 授業参観で、保護者は、
 ・自分の子どもの学校での様子を見る。
 ・他の子どもの様子を見る。
 ・授業者の「授業」を見る
など、いろんな視点で見ている。
 自分の子どもが、ただ楽しそうにしていればいいとか、発表すればいいとか、そうした一面的な様子ではなく、「授業」を見に来ていると、私は、現勤務校に来て特に強く思えるようになった。自分の子どもの姿を見に来ているのは重々承知の上で、私は、あえて授業研究の一端として参観授業を位置づけている。
 保護者からの信頼を得る参観授業があるのだとすれば、拙い授業であっても、こうした姿勢そのものなのではないだろうか。

 

4.授業参観のその後 
 翌日の校外の参観者が見守る授業は

【なにがうれしくてぴょんぴょこおどっていったのか】
の問いから始まった。
「見られてはずかしかった。」
という前日の視点からの発表の後、
「おかみさんがわなをはずしてくれたから、そのおかえしでやってたのはぼくだよって気づいてもらいたかったから、それで気づいてもらってうれしかったから。」
という発表を受け、大きく意見が変わっていった。前日に疑問として残った「たぬきは、しっぽが見えちゃったのか、わざわざしっぽだけ見せたのか」についても、気づいてほしいというたぬきの思いを読み取ることができた。
 こうした子ども達の読みの変化についても、授業記録を学級通信として保護者に伝えた。惑うことは、より深い読み取りに必要だということを。
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 問いに対する明確な答えが出ない。
 本当はどうなのだろうか?で終わる授業。
 読み取りの答えは、教師が出すのではなく、子どもの発表を待つ。
 つまりは、
 はてな?の答えは、教師が出すのではなく、子どもの追究を待つ。
という有田和正氏の授業観である。
 授業参観という場においても、年度当初に示した学び方の方針を貫いた授業にしたい。
        国語教育(明治図書) 20126月号