「教えない教え」  権藤 博(野球評論家・元プロ野球選手)  集英社新書

「厳しく接する」でなく「厳しさを教える」
  人に「ものを教える」というのは本当に難しい。とかく日本人は「優しい指導」と「甘い指導」を勘違いしている。さらに「厳しさ」が「イジメ」になってしまっている指導者も多い。
  できないことをできるまで辛抱強く見守ってやるのが「優しさ」である。一方、できるまで待つことができず、「また今度」とか「次にやればいいよ」となってしまうのが「甘さ」である。
 厳しく接する、あるいはハードなトレーニングを課す。それを厳しさだと勘違いしている指導者がいるが、厳しく接するのも、ハードなトレーニングを課すのも、精神的、肉体的にダメージを与えているだけであって、それは厳しさでなくイジメである。
 厳しさとは、「この世界で生きていくにはこういう練習をして、それに耐えていかなければいけませんよ」と教えること。指導者に求められているのは「厳しく接する」ことではなく「厳しさを教える」ことなのだ。          (P18~19)

「優しさ」 と 「甘さ」  実に明確に書かれている。

「厳しく接する」ことと「厳しさを教える」ことについても、そうなのであろう。

 曖昧に捉えてきた感のあることが、はっきり自覚できるようになる瞬間を感じた。

教えすぎるな!
※ アメリカの教育リーグに参加していた時、あるコーチのバッティングを教えていた場面でのこと     <※ 沼澤>
「Mr.ゴンドウ。教えてくれるのはありがたい。でも教えられて覚えた技術はすぐに忘れてしまうものなんだ。それとは逆に自分で摑んだコツというのは忘れない。だから私たちコーチは、選手がそのコツを摑むまでじっと見守っていてやらなければいけないんだ」
 私はその言葉を聞き、冷や水をぶっかけられたような衝撃を受けた。私も教育リーグに参加する以前からDon't over teach という教えは知っていたが、そのときに初めて Don't over teach の本当の意味を悟った。
 コーチングをしているとどうしても教えたくなってしまう。指導者や上の立場にいる人間というのは、教えた方が手っとり早く済むからどうしてもそうなってしまいがちだ。
 でも、真にその人物の成長を望むのであれば、コーチや教える立場の人間は  Don't over teach を忘れてはならない。どんな相手であれ、真の成長を望むのであれば丁寧に助言し、我慢強く見守っていく姿勢を保つことが大事なのだ。       (P22~23)

授業を開いて終える = 疑問を残して追究を導く

 我慢強く見守ることの大切さ  野球のプロの世界も同じなのだ。

 人は優れた師に導かれることもあれば、反面教師から大きな宝を授かることもある。だから学校や会社で認めがたい部分をたくさん持った教師や上司と出会っても、決してそのことだけでもって悲観する理由はないのである。         (P28)

権藤氏の器量の大きさがこうした視点によく表れている。

マイナス面から学びを得ることができる柔軟さを会得したい。

 前述したが、メジャー・リーグのコーチの教えに Don't over teach という言葉があるように、教えすぎも禁物である。選手にとって必要のない教えは、その選手の成長を促すことはない。
 選手の自主性を引き出しつつ、選手自らが何かに「気づく」ように持っていってやるのが真のコーチの務めと言えよう。教えられて覚えたことはすぐに忘れてしまうが、自分で気付いて覚えたものは体にしっかりと染みつき、忘れることはない。そしてそれはその選手にとって大きな財産となっていく。                         (P35)

これこそが私が学んできた「有田式はてな?」の授業である。

 私が監督になり、目指したのは「放任」ではなく「奔放」だった。
 『広辞苑』によると放任は「成行きにまかせてほうっておくこと」。奔放は「伝統や習慣にとらわれず、思うままにふるまうこと」。私は選手たちにプロとして奔放にやってほしかったのだ。                                             (P50)

ここで言う「奔放」は、

荘子が目指した「生命のある無秩序」。  (荘子は「生命のない秩序」と対比している)

それと同じものを感じる。

 前で述べたように、人から押しつけられたものは決して自分の身につかない。何かを身につけようとするとき、重要なのは受身ではなく能動的な姿勢なのである。何かを知りたい、会得したい、そんなときに必要なのは自ら動き出すことなのだ。
 私の過去を振り返ってみても、学ぶというのは誰かから何かを「教わる」のではなく、誰かの真似から始まったように思う。
 私のピッチングにしても、それは「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた昭和の大投手、稲尾和久氏を真似たものだった。………………                   (P96~97)

 解き方が分かった気になる順を追った思考過程とその答えの暗記 と

 一見、軽い言葉で受け取られがちな「真似」という行為の違い。

 前者は受身で身につかない。

 後者は試行錯誤が伴っての能動的な形で行われる場合、真の学びが成立する。

 指導者に必要なことは、子どもの関心・意欲を引き出すこと。

 容易に「分かった」と言わせることで終えてはいけない。

 専門外の種目に取り組む一番の利点は柔らかさが育まれることである。この場合の柔らかさとは「動きの中の遊び」を意味する。動作の中に遊びや余裕が出てくれば、それまでよりさらに臨機応変な対応が可能となる。それはその人の可能性をさらに広げてくれる。                                                            (P101)

小見出し「専門外のことをやると、いい気付きが得られる」の一部

「遊び」という言葉に含まれた意味が深い。

 レベルアップは「過程主義」から生まれる
 大人も子供も、またどんな職業であっても、自分なりの目標は持つべきだと私は考えている。その世界でレベルアップを目指すのであれば、きっちりとした目標を立てるべきであろう。
 ただ、そこで問題なのは「どういう目標を立てるか」ではなく、「そこに行き着くまでにどうするか」なのである。                                  (P178)

 プロであるから、結果を問われることは百も承知の上での「次への成長を見据えた過程主義」である。

 自力で取り組むその過程での学びに意味を置いている。

これまでも

野球では広岡達朗氏、野村克也氏、将棋では米長邦雄氏、羽生善治氏

それぞれの世界で活躍した人達のことばには、多くのことを教えられた。

中でも今回の権藤博氏のことばが「有田実践」にもっとも近いものを感じた。

ふと手にした本との出逢い。いいものだ。     沼澤