「私の子育て論       有田和正先生

 第4回有田先生と勉強する会  1998年(H10年)1月5日(月)

                     村山市碁点温泉「クアハウス碁点」

 あけましておめでとうございます。正月早々これだけ集まっていただきまして、ありがとうございました。今朝まで雪がありましたね。今はもう解けていますけれども。足場の悪いところをよく御出でいただきまして、本当にありがとうございます。
 お役に立てるようなお話ができるように努力していきたいと思います。
 結城先生からいただいたテーマが、「私の子育て論」。私の学級の子供をどう育ててきたか、というようなテーマだと思ってきましたが、そうではなくて、自分が生んだ、いやぼくは生んでいませんが、家内が生んだんですが。自分の家の子供をどう育てたか、という話なんで、びっくりしまして。いつも、ここはびっくりさせてくれるんですが。
 昨年は、「筑波大附属小学校にいた時の、ある1日」のことを話せ、と。そういうことを考えてみたことがなかったんですね。今年は何が出てくるかと思ったら、子育てでしょう。たいへん困っておりますが、まあ何とかおもしろく話できればいいなあと、思っております。
 こういう話がありました。

 

「あるところに1本の木が生えていた。木はある少年をかわいがっていた。少年は、毎日木の所に来て遊んだ。枝でブランコをしたり、りんごの実を食べたり、木かげで眠ったり。彼は木が大好きで、木も幸せだった。だが、時が立ち、成長した彼の足は遠のき、木はひとりになることが多くなった。
 ある日、彼が来て、遊ぶためのお金がほしいという。木は、りんごの実を売って、お金を作るようにと勧めた。彼はりんごの実を採って去り、木は幸せだった。
 やがて、壮年になった彼が、家がほしい、結婚したい、と言う。木は枝で家を建てるように勧める。枝を切って彼は去る。木は幸せだった。
 中年になった彼が、遠くへ行くために ボートがほしいと言う。木の勧めで彼は幹を切り倒し、ボートを作って去った。  

 長い年月がたった。老人になった彼が戻ってきた。木は切り株だけになった自分の上で休むようにと勧める。彼は言われるままにした。木は幸せだった。」

 

 こういう話なんですが、私はジンときましたね。この木は幸せだった、っていうんですけれども、これは親の心境ですよね。息子からむしり取られ、むしり取られて、最後は切り株になって、それでもなお木は幸せだった。つまり、親は幸せだった。
 ようやく最近になって、親の気持ちとか言うのが、わかるような気がしております。でも、本当にわかっているかどうかわからないんですけれども。
 私は、小学校の1年生の時に2月でしたけれども、父が亡くなりました。兄弟3人いまして、私が一番上で小学1年生でした。3才の妹と、2才の弟がいました。母はずいぶん若かったはずです。再婚もせずに私ども3人を育てるために、命を懸けたというか、現在も83才で元気にしております。頭の方が少々いかれてきましたけれども。『現代教育科学1月号』に「私の生きがい」というタイトルで、文章が載っています。あの特集はたいへんな反響で、この前江部満さん(明治図書編集部)に聞いたら、かつてないほどの手紙をいただいてびっくりした、とお話していました。私も今まで書いたことのないことを書きました。それは、今申し上げましたように父が早く亡くなったということです。
 祖父母はいましたけれども、家は別ですから、結局母が女手一つで育てたということです。小さいときから、兄弟の父親代わりのようなことをしてきました。小学校のちょっと上の方から、父親のように妹や弟に接してきたというところがあるんですね。母も、私をたいそう頼りにしてまして、「あなたは大きくなったら、お父さんが早く死んだんだから二人分の仕事をやらなくてはいけないのよ。そのためには、二人分の勉強をするのよ。」これはもう、ぼくは耳にタコができるほど、小学校二年か三年のころから、ずっと聞かされてきました。でも、その時はどういうことをすることが二人前に生きることか、わからなかった。結局それは母を喜ばせることじゃないかと思った。父の役割をしなければならない。そういうことで母親の喜ぶことをやってきた。もちろん、物凄いいたずらっ子でしたから、悲しませることも、人一倍やりました。今、つっぱりの子供たちがいろいろいますけれども、あのくらいのことはやってましたね、私の若い頃、小学生の頃は。田舎で同窓会をやって、「お前が先生をやっているなんて思いもしなかった」なんて同級生から言われました。その時の担任もまだ生きていまして、いちばん最後の卒業の時の先生は、もう90才で、まだ元気にしております。いたずらをしたし、悲しませることもしましたが、喜ばせることもしたと思います。
 私の若い頃の生きがいというのは、母を喜ばせることでした。そのためには勉強ができなければ喜びませんから、勉強を一生懸命しよう、それから、お手伝いを一生懸命しよう、ということをやってきました。
 ふとふり返ってみると、自分の子供がだんだん大きくなって、さて、母が自分の思いをまたは生きがいを、ぼくに、子供に具現しようと思っていたのではないか、と思うようになった。そのことに気づいて、自分の親から受けてきたことを絶対に自分の子供には、自分の考えは、押しつけない、これが私の基本的な子育ての姿勢です。
 それが学級で子供を育てるときも同じでありまして、自分がこうしたいと思うことを強引に子供に押しつけるというのは、やっていないつもりなんです。人様から見ると、やってたんじゃないかと言われるかもしれませんが、私は基本的にそういう考え方を持っていましから、自分の考えを押しつけるということは、子供にももちろんしませんでした。私は、結局母から、学校の先生になれと言われた。なぜかといいますと、ここにいる先生方もそうじゃないでしょうか。先生になりますと、田舎から離れて都会に出ていかなくても済みますよね。だいたいのその地域に。村山で生まれたなら、村山の学校に勤められる。母は福岡県の田舎の方、こういうところよりもっと田舎ですから、人口六百人位の村でしてね。今はもっと減っているようですけれども。私みたいに村を捨てて出ていく人が増えている。先生にすれば田舎から出ないだろう。私は母の言うことをきくこととが親孝行だ、生きがいだと考えて先生になった。本当は新聞記者になりたくて、小さい時から新聞をよく読んでいました。特派員になるような新聞記者になりたいという夢を持っておりました。それが、いよいよ大学に受験する頃になったら、母から「頼むから先生になってくれ。」と言われてですね、実は文学部か法学部かその辺りを受けるつもりだったんですけれども、結局教師になる道を母のために選びました。
 私は教師になって全然後悔してません。やっぱり母の言うとおりにしてよかったなあと思っています。もし先生にならなかったら、ここまでやれなかったんじゃないかなあ。百冊の本は書けなかっただろうと、こう思います。その辺りを母が見ていたのかもしれません。
 私は、息子娘には、職業選択の自由。憲法第何条ですか、それを子供にも保障しました。だから、何にも相談しないですね。相談を受けたら、相談に乗る。しかしこちらからどうしろということは、一切言わない。もう娘なんか徹底していまして、高校も大学も全部自分で選んで、就職先まで選んで、結婚相手まで自分で選んで、やりましたね。勝手に子供も産みましたね。まあそれが普通ですけれども。息子の方は、多少は相談がありました。娘は何にも相談がない。その相談しないのは家内が嫌なんですね。何にも頼りにしていないって、嫌がるんですけれどもね。それが自立した人間ではないかと、私は言うんですが、その辺りが私と家内の考えの違うところなんです。私は親からそういう教育といいますか、教えがあったもんですから、何としても自分の意志で、自分が本当になりたいものを選んでなりなさいと、それだけ言ってきました。
 私は、仕事人間にだんだんなっていきました。結局親父と自分と二人分やんなきゃいけないんですから、仕事をせざるをえない。でも、二人前やろうと思ってきたけれど、結局は一人前やっとじゃないかなあと思っているところであります。
 「仕事が趣味ならば、人生は天国だ。仕事が義務ならば、人生は地獄だ。」という言葉があります。自分の仕事をいかにして趣味とするかということ。母親から押しつけられてなった先生ではあるけれども、武者小路実篤ではありませんが、この道しか生きる道なしとだんだん考えるようになってきました。私の性にあっているんじゃないかと自分で思って。しかも教師の仕事をすることを一応趣味にしています。
 正月三が日ですね、昨日4日ですね。3日の日まで、お客さんがいろいろありまして、仕事できませんでした。でも、お客さんが来るまでは、原稿を書いていました。正月の元日も書きました。10枚くらい書きまして、2日の日も書きまして、昨日はかなり書きましたね。そうすることが、趣味なんですね。テレビ見たら疲れるんです。でも、野球でジャイアンツが勝ちますと、疲れがふっ飛ぶんですが。去年は、調子が悪くて、ジャイアンツの試合を見るたびに疲れましたが、今年は高橋という、慶応のスラッガーが入りましたから、ジャイアンツはいいんじゃないかなと思います。内部分裂を起こす可能性もありますから、どこまでうまくいくかわかりません。
 とにかく自分の仕事を趣味にする。私の場合は、正月であろうが何であろうが、机に向かって好きな原稿を書いておれば、超幸せなんです。原稿を書くことは苦手ですよ、私も。苦手なんですけれども、楽しいですね。何にも書かないで寝るときは、寝付きが悪くて、悶々としてますから。その時は起きてまた何枚か書いて、また寝る。本を読んで寝るというのがしばらくありましたが、今本を読む量を私は医者から制限されていまして、ついに眼鏡を買ったんです。去年買ったんです。これまで眼鏡なしで、今でも眼鏡なしで新聞読めるんですが、目が痛む。ちょっと続けて仕事しますと、片方の目が出血するんですよ。出血すると熱くなりまして、真っ赤なうさぎのような目になる。それをまあいいやと思ってやっていると、両方なるんです。両方なりますと、2週間から3週間とれないですね。学生が嫌だって言うんですよ。お医者さんが動く電車の中で本を読んではいけないって言うんです。私はいつもショルダーバック下げて、両手をあけて、いつでも本を読めるようにしていたんです。でも、今日は本は持ってきていません。持ってくると読んでしまいますから。動くものの中で読んじゃいけないって言われました。それで本を読む量ががぐっと減ったんですが、原稿を書くのは、そういうわけにいかないもんですから、夜寝心地が悪いと、ごそごそ起きて何枚か書くと、ぐっすり寝られる。だから、眠り薬の代わりに、原稿を書く。そういう生活で、そんなのを仕事中毒って言うんでしょうね。人から見たらそうなんでしょうが、わたしはそうすることが幸せなのかなあと、自分では思っているんです。
 人間の幸せというのは、人から言われて決まるものではなくて、自分でどう思うかでしょう。あったら必ず愚痴をこぼす人がいますでしょ。何かブツブツ職場の不満とか、友達関係の不満とか、不満をぶつける人がいませんか。いない人は幸せですが、私の回りには必ずいるんです、そういう人が。そんなことないよと慰めてやるから、ますます言うのかもしれませんが、そういう人は、どこまでいっても幸せということがないんじゃないかと思います。今がいちばん幸せ、今がいちばんいいという気持ちが必要でないのかなを思います。
 私はもう60を越えまして、先が短いわけですから、いつも、今がいちばんいい時だといちばん幸せだと、そういうふうに思っています。自分の子供にも学級の子供にも、今がいちばんいいんだよ、小さい子供には子供のうちがいちばんいいんだよ、今がいちばん幸せなんだ、またそう思うことが幸せなんだ、思わなきゃ幸せじゃないよ、今日はだめだけど、明日になったら幸せになるんだという人は永久に幸せがこない、そういう哲学が1つあります。それは、自分の子供にもしょっちゅう何かあると話してきました。
 おもしろいなあと思うのは、遺伝というのは恐ろしい、怖いという気がします。目黒1中というのが東京にあります。東大の近くにあるんですが、東大のすぐ横の官舎に昔住んでいました。下の女の子の方は、6年生で東京に来たんですね。上は中学2年生になる時に来たんです。目黒一中に息子が入った。そしたら学校から呼び出しがかかってきた。ぼくは筑波大附属小にいましたから、筑波大附属小まで担任の先生から電話がかかってきた。家内は千葉の方に勤めていたから、わからない。家にはおふくろがいたんだけど、わからない。聞いてみましたら、物凄いいたずらで、学年の先生方の溜り場がありまして、そこに友達3人くらいと入りこみまして、学校の先生が大事にしているコーヒーとかを引っ張りだして、全部試食して、あそこの棚にあるのがおいしいコーヒーで、その次のがだいぶ悪くてなんて、そういうことを調べて学級のみんなに知らせたんです。気づかれないように片付けて、他の生徒が、そりゃいい話だっていうんで、その後違うグループが行って、やった。量が減ったんで先生が気づき、話を聞いていくと、そそのかしたのがうちの子らしいんですね。そこで、担任の先生が非常に悪質だって言うんで、私に電話がかかってきました。恥ずかしい話ですが、呼び出しがありまして、学校に行きました。
 その時思い出したのが、私が小学校の時、その通りだったんですね。私は学校でいたずらはしませんでいしたが。例えば村中の柿を食べて、ここにある柿は甘柿でいちばん早く熟れて、ここにある柿は渋柿でなんて、全部頭に地図が入っていました。そしてあれはそろそろいけるぞ、食べにいこうと、学校帰りにいたずらして回りました。頭にそういう地図を持っている。スイカを植えますと、あそことあそこにスイカが植わって、ここはスイカが早く採れて、なんて。壁の外からスイカの汁を吸う道具を作っていました。長い竹に、針金を焼いて、竹の節の所に穴を開けるんですね。そしてスイカにぱっと差して、横に寝て汁を吸うんです。スイカは採らない。わかりますから。横の汁だけ吸って、あと枯れちゃうんですから。そういう道具を作るのが、生活科の基になったのかなあと思うんですが。柵がある畑の周りのスイカは、みなだめになった。帰りにだいたいそういうことやってたんですから。そういう血を引くんですね。ということを息子がいたずらをして初めて気づきました。
 先生にいろいろ怒られたんですけど、「これ遺伝ですよ」と言ったら、「どういうことですか」って言うんで、「実は私も小さい頃こういうことをやってました」と話したら、「先生は正直ですね。実は私もそうです」なんて、結局その担任もみんなからおやじってあだ名が付けられているように、相当な強者だったらしい。「これは遺伝なんですよ」といったら「じゃあ、うちの親父もそうかな」「親もきっとそうだと思いますよ」と、妙なところで意気投合しまして、謝りにいったのに、相手を説得するというか、煙に巻くというか、そういうことになりました。帰ってからは息子にもう少し上手にやれって、どうせやるなら見つからないようにやらなきゃ、でないとお父さんまで叱られるからなあ、と言いました。 知能というのは、母親と父親の平均値ですね。もし今結婚していない人がいるならば、絶対相手は頭のいい人を選ぶべきですね。もし自分が超頭がよければ、超頭の悪い人を選んでも大丈夫ですね。平均値の子供ができるんですから。心理学のそういう専門の人に聞いてみましたら、まず、父親の知能指数と母親の知能指数を足して2で割った位の子供ができるんだそうです。二人できたら、どっちがいいか。それは同じにはならないそうで、同じくらいにはなかなかならない。兄弟三人大学の先生になるなんていう家がありますが、あれは、両親が相当頭がいいんだろうと思います。そう言われてみると東大の先生をしている人の子供を何人か受け持ちましたが、本当に出来が悪かったですね。親父は東大の先生をしているのに、なんで子供はこんなに出来が悪いんだろう、と思うんで
すが、あれは奥さんが悪いということがはっきりしていますね。平均値ですから。
 いたずらなんかも、遺伝するということです。よく、先生方お子さんを見ていてください。お父さんは若い頃よくできたのにお前は頭が悪いなあ、というのは嘘ですね。子供が悪ければ、絶対に親が悪いんですね。どちらかが悪いわけですよ。そういうことが言えるんじゃないかなあをいうことを、自分の子供を通して思います。上の子は、母親、うちの家内に似てまして、非常にのんびりしている。今日がなければ明日があるじゃなくて、今日がなければ一週間後がある位、のんびりしています。年中忘れ物をして、どこに何があるか、自分が生きているかさえ忘れてしまう。正月お客さんにこれ出しましょうなんて準備しているのに、全然忘れて、準備してたのないからなんて新しく作って出す。帰ったあとから、この重箱出すのを忘れていたわなんていう親ですから、まともな子が育つ方がおかしいと、そういうのを選んだ私の方がもっと悪いんですけれども。
 ただ、本を読むことに関しては、私の血を引いているかなあと。私よりも本の数はたくさん持ってますね。何万というくらい持っています。私は教育書関係が非常に多いんですが、うちの子は国文学をやってまして、4月から大学の教官になるようになりましたけれども、近代文学をやんてるもんですから、明治以降の作家の作品は全部読んでいるんじゃないかと。それが全部あるんですよ。本で家がつぶれそうなんで、倉庫を2つ作ったんですが、それももう、満杯で、大工さんに来てもらって、家の床を強化するということもやりました。上の子はものすごく本を読むんですね。下の子はものすごく本を読まない。指定された本さえ読まない。先生が夏休みこれ読みなさいという本でも「お父さんこれどんな話。お兄ちゃんこれどんな話。」と聞くんです。すると息子が全部教えちゃうんです。それで感想文書くんですね。本は読まない。そういう要領のいいところは私に似ているかなあと。上の子がなぜ本を読むようになったか。私でもない。家内でもない。それは私の母親の影響なんですね。私も忙しい、家内も勤めているので忙しいでしょ。毎日寝るときに、おふくろが寝せるじゃないですか。寝る前には必ず本を読んでいた。小さい頃は絵本でした。私は子供のためには絵本を本当にたくさん買いました。子供のためにしたというのは、本だけでしょうね。おふくろがそれを読んで聞かせる。毎日毎日読んで聞かせる。私は、子供を本好きにするには、小さい頃から読み聞かせをするということを、息子を通して学びました。だから、小学校の1年生を担任しまして、子供が本を読まないといったら、お母さんがお父さんがおじいちゃんがおばあちゃんが、子供に本を読んで聞かせなかったんです。今からでも遅くないからやってください。こう言ってました。まもなく本好きになります。それは1年生でも手遅れではない。私は人生で手遅れということはないと学びました。私の子供を通して、子供が本を読む、1年生になって本を読まない、4年生になっても本を読まない、そしたら、自分が読んで読み聞かせをしてください。それからストーリーを話してください。こういうことを言ってきました。これはかなり効果があったと思います。
 手遅れが専門のお医者さんというのがいまして、どんな患者さんが来ても、「これは手遅れですね」と言うそうです。これは便利がいいです。手遅れと言った時、治れば大先生。治らないでもともと。手遅れなんだから死んでもいいわけでしょ。そういうお医者さんがいるそうですが、どんな軽い病気でいっても、そのお医者さんは、「手遅れですね」と言う。ある近所の男が、何としてもあの先生の鼻の穴をあかしたい。手ぐすね引いて待っていました。ちょうど台風が来まして、屋根が壊れて、隣の人が修理していた。そしたら足を滑らせて屋根から落ちた。そしてちょっと怪我した。これがチャンスだと思って、落ちた親父をすぐ車に乗せて、そのお医者さんの所に連れていった。「先生、怪我しました」「どれどれ、手遅れですね」やっぱり言った。「先生、何が手遅れですか。今落ちて5分も立たないうちに連れてきたんですよ。これでも手遅れですが」「じゃどうしたらいいのですか」「そうですね。その次は落ちる前に連れて来なさい」これ手遅れっていう話なんですけれども、私どもが子供を受け持っても、親には、絶対手遅れですねと言うべきですね。筑波大附属小にいたとき、新しいクラスを受け持ったとき、保護者に言いました。「私新しいクラスを受け持って、たいへんうれしいですが、40人の子供たちはみんな手遅れです。どうしようもありません。でも、私の仕事はお宅のお子さんを育てることですから、なんとかやってみましょう。みんな手遅れですから、あまり上の方は望まない方がいいかもしれませんよ。」という話をする。そしてだんだん伸びてきたら、「あなたのお子さんはやっぱり手遅れじゃなかったみたいですね。いいじゃないですか。」「やっぱり先生の腕がいいからでしょう。」「そうなんですよ」それを言わせるんですね。1年生なんかの時はもってこいですね。「子供の知能は5才で決まるのに、あなたのお子さんは6才でしょう。もう1年手遅れなんです。」こう言っておき、子供が伸びますと「ああこの先生いい先生なんだな」と、思いますね。そういう手に使えるんじゃないかと。
 とにかく、下の子は本を読まない。上の子の時はさんざん読んで聞かせてやったもんですね。2番目の時はおふくろもあきちゃって。上の子に本を読んでやっているときに、いっしょに聞けばいいの、聞かない。テレビを見ている。上の子はテレビを見るより、話を聞く方がいい。この辺りで、性格、生き方が兄弟二人で分かれてくる。
 子供を育てるためには、小さいときにたくさん本を読んでやる。これが行き過ぎたわけでもないでしょうが、国文学の方に行っちゃった。私は、どうせやるなら社会科をやれって言ったんですが、社会科をやらなかった。
 実は上の子は目黒中にいきまして、2年生になる時転校しました。実力試験というのが昔よくありましたよね。実力試験ではだいたいいいところにに入っていました。田舎の方に入るときは1番2番といってましたね。出来がいいかなと思っていました。入りたい高校に入れるかなと思っていました。東京の高校入試は21群とか、群でやる。うちの子が入るときは、階段式で、横向きに内申書がありまして、縦向きに受験で採った点数が来て、階段で採っていくという方法です。21群の中には3つの高校があって、成績順に123、456と3校が平均化するように割り振りされて、どこにいくかわからないんですね。目黒高校と駒場高校と新宿高校の3つありまして、3つのどこにいくかわからない。群でレベルがあって、21群は家から近いからいいだろうと思っていた。そしたら担任の先生が、「お宅のお子さんは、21群は無理です。実力試験はいいけれども、内申書が悪いからだめです。」といわれた。「なぜ内申書が悪いんですか。」と聞いたら、2つ理由があった。1つは2年生の時に大変ないたずらをした。これが内申書の減点になっている。もう1つは転校してきた。転校してきた子供は、1年からいた生徒より、絶対によくしないという原則がある。3年間いた子の方が内申書がよくて、途中で転校してきた子の方が、内申書が悪い。「この2つの理由で、内申書が悪いので、21群は無理なので、違うところに変えてください」と言われた。「実力試験でこれだけの点数を採っているのに、どうして内申が低いのか、私は教師として納得できない。教育委員会に聞きます」といったら「どうぞ聞いてください」と言うんです。それから東京都の教育委員会に電話しまして、「こういうことを中学が言っているが本当か」と言うと、「本当だ」と言うんですよ。ガクッときましてね「それはあなたがいくら言っても無理です。これは東京都方式で、そういうふうに決まっているんですから、変えることは出来ません。」これは大変な所にきたと、その時初めて思いました。
 子供の実力で入れない。それでえらく腐っちゃったんですが、落ちてもいいから受けろ、と言って受けたんです。落ちたら私立の高校に行くと。それでそこそこの私立の高校を受けたんです。東京タワーの近くにある高校です。21群の高校にも受けたら、通ったんです。すると担任が何といったかというと「それは偶然です。」私が卒業式の時に、担任に内申はどれくらい付けたんだと、聞いたんです。「内申は悪いですよ。あれは試験がたまたま出来ていて、偶然です」と言う。今でも頭に残っています。「偶然です」という言葉をよその子供に使っちゃいけないですね。今、顔も名前もはっきりその先生を覚えています。
 とにかく、新宿高校に上の子が入りまして、そしたら、もう勉強しないですよ。高校は内申は関係ないだろうから、勉強しろよ、と言っても勉強しない。趣味に生きている。私は仕事が趣味なんですけれども、上の子は本当に多趣味なんです。小さいときは柔道を習いました。しばらくしたら、剣道を始めました。道具は今でもありますが、東京に来てからも、剣道塾に行きました。ほかの塾に行きませんよ。高校に入ったら、ころっとやめてチェロを始めた。チェロというのは高いですね。百万近いチェロを買えっていうんですよね。筑波大附属小の音楽の先生に相談して、チェロを買いに諏訪湖の所に連れていってもらった。諏訪湖の畔には、チェロを作る名人が何人もいるんですね。手作りでチェロを作っている。そこで、半額とはいきませんでしたが、筑波大附属小の先生の顔でかなり安い値段で買うことが出来ました。
 親バカもいいもんですよね。それからチェロを弾くようになった。そのうちフルートもやりました。学校のオーケストラに入りまして、本当に勉強はしないで趣味に生きていました。自分の人生は自分で切り開くべきだと私は思う。私は趣味が何もない。仕事をするのが趣味ですから、子供はいいだろうと。
 下の子は下の子でですね、中学の時バレーボールをやっていました。高校入ったら、テニス。テニスであっちこっちに試合に行く。行くたびに、負けて帰ってくるんですけれども。そのうち高校3年くらいになると、スキーを始めた。息子と娘にスキーに連れていった。私は40になって初めてスキーをしたんですから、上手なはずがない。上手なはずがない。いちばん最初の滑りだけ教えたんです。息子は全然おもしろくないと全然やらない。娘はそれからおもしろくなって、高校の時から、湯沢に日帰りでスキーに行く。大学に行きまして、冬になったら、もう毎週毎週スキーに行ってましたね。今はかなりの腕のようですけれども。それ以後、ずうっと私と行かないから、どれくらいかわかりませんけれども。
 とにかく、今の若い人は、趣味が広いですね。うちの家内は何もない。無芸大食。食べるものにかけては、おいしいものがあると、どこまでも行く。それが趣味で、それだからぶくぶく太るわけです。私の方は、仕事が趣味でしょ。子供2人は、自由奔放に生きていて、羨ましいと思います。
 上の子は音楽に凝りまして、オーケストラをやって、かなり腕を上げた。それから早稲田大に入りまして、早稲田大のオーケストラに入って、ずっとやっていた。早稲田大から就職するかなと思っていたら、しない。僕が社会系の方をやったらどうかといったけど、やらないで文学系の方をやると、気が付いていたら入ってました。大学院に行くといいまして、早稲田大の大学院に行くかなと、思いましたら、立教大の大学院に行きました。僕の尊敬する先生がいないから、早稲田大を受けないというんですね。「立教には、いるのか」「いる」「誰だ」「前田あい」。前田あいという人は、現代文学の分野ではならした人で、53才くらいで亡くなった人です。その前田先生に憧れて大学院に入ったんです。そしたら、入った年の夏休みに、前田先生が亡くなっちゃった。それでもう、がっくりきてですね。萎れていたのがわかりましたが、修士論文書くのが、1年か2年遅れてですね。それでも私が若いし大丈夫だろうと。立教大を出ました。
 今度は筑波大に行くっていうんですね。何でと聞くと、「筑波大を出ないといいところに就職できないみたい」と言うんです。「なぜ筑波大に行く」「筑波大に平岡という先生がいる」これまた、国文学ではならした先生です。また試験を受けて入ったんです。うちの息子が入った4月に、平岡先生は、群馬の大学の学長に出ちゃった。その先生がいるから入ったのに、また逃げられた。かなりがっくりきまして、そのお弟子さんの若い助教授について、5年間博士課程で勉強して、ようやく今年の4月、京都の大学に行くことになりました。 
 私は、息子が先生になるとは、最後までわからなかった。筑波に行くときも、大学の先生になるというわけじゃなかった。国文学を勉強して、辞書を編集するような仕事をやりたかったらしい。相談しないで、自分勝手にやっていた。ドクターコースを5年間勉強して、そろそろ就職しなきゃならないというときに「父さんどこかいい大学ないかな」と相談された。私は社会科分野であれば、多少知った人もいますけれども、国文学の方とは、全然人脈はありませんし、知らない。自分でやれと、突き放すしかない。結局自分で探して、推薦で決まったんだろうと思います。
 こうしてみますと、転機になるときでも、ほとんど私に相談していない。家内にいっているかというと、家内にも、たいして相談していない。学級の子供にも、自分が行きたい道なら、滑ってもいいじゃないか、と言ってきました。その通りのことを子供は歩いてきたんじゃないかなあと思います。後悔はしないはずですね。自分で選んだ人生ですから。自分の子供でも、人格は別ですから、親の思いをぶつけて実現させていくというのは、やらない方がいいかなあと思います。相談されれば、別ですけれども。ただ、うちの子は、回り道はしましたが、それはそれでよかったかなあと思います。
 上の子が、4才くらいで幼稚園にいった。幼稚園にいくには、バスに乗っていかないとない。母が、下のこの手を引いて、バスに乗って幼稚園にいく。幼稚園に入るときに、福岡教育大附属小倉小学校に転勤になりました。家から通えるんですけれども、研究授業が年間に11回した年ですから、学校から帰れない。家から車で順調にいきますと、1時間くらいの距離なんですが、疲れ果てて、とうとう学校のそばに下宿しちゃったんです。月曜日に朝早く出て、だいたい土曜日に帰る。
 幼稚園に入ったらもう泣いていかない。2~3週間家内が連れていった。家内が「私も泣きたくなった」といっていました。「泣いていいよ」言ったんですが。私も学校で泣いていましたから。私も、家内も、子供も泣いていた。そういうのが昭和42年。忘れもしない年です。息子は1ヵ月くらいで慣れました。そういうことで、僕が土帰月来ということをやっていた。それを9年。家では、家内と母が女2人でやっていた。これも容易なことではないですね。確執はあったようです。
 私は、子供に何も出来ない。普段は自分のことで精一杯。だから、だんだん子供が離れていくんですね。家に帰っても仕事してるわけですから。子供が小さいときに附属なんかにいくと、大変ですよね。でも、適当にやれば別ですけれども、なかなかそういうことは出来ない性格なもんですから、のめりこんじゃう。
 子供がどこかに行きたいという。私は、田川郡といいましたが、その郡の先生の中で免許と車を持ったのは、私がいちばん最初でした。昭和33年に大学を卒業しましたが、卒業してすぐ、3回試験を受けにいきましたね。今みたいに実地試験免除なんていう学校ないですよ。練習場がある。1回いくらで貸してくれるんです。コースの紙をもらってですね、それを見ながら運転するんですよ。それだから、試験は通りませんよね。夏頃かな、3回目で合格しました。そしたら、車がほしいじゃないですか。車は軽自動車がなく、バイクを買いました。
 次に、マツダが出したクーペという小さい車を買いました。窮屈で家族4人乗れないんですよ。1年で手放して、スバル360という車を買いました。それ買ったとき、郡市合わせて1人。「あの有田の息子は田舎者のくせに、ぜいたくに車なんか買って」と言われましたよ。帰る途中、田舎の人が歩いていたら、乗せないと後で文句を言ってくる。どんな汚い格好をしていても、乗せないと母が婦人会の世話をやってまして、「お宅の息子は歩いていると、知らん顔して水を跳ねていく」と言われるんです。それで母が「乗せなさい」と言うんですよ。だから村中の人乗せましたよ。車を早く買った関係で、小倉まで、車で往復することができました。
 子供がだんだん離れていくもんですから、子供を連れだして、連休を利用して、九州、山口、広島辺りの、めぼしいところは、全部車で行きました。軽自動車ですよ。今は考えられない。今、カローラ乗ってますが、あれでも小さく感じますね。「お父さん今度は、寝台車、ブルートレインに乗せろ」と言うんで、寝台車にも乗せました。結局やっと、親の面目を保ったというか、子供のためにやったというのは、子供が行きたいというところに、連れていったということくらいです。それが、自分が社会科を深めるきっかけになった。自分が行きたいところと、子供が行きたい所をすり合わせていきますから。
 子供を旅行に連れていった、それくらいしか出来なかったんです。それで、子供が社会科をやるはずだったんですが、旅行もよその親よりもかなり連れていったと思うんですけどね。それでも、国文学にいったのはなぜか。結局僕の母の影響の方が強かった。4才くらいまでの間に、みっちり本を読んで聞かせてあげた。それの方が、影響が大きかったと今でも思うんです。
 私は社会科がいちばん得意なんですが、子供にいちばん得意なものを教えて、早く成長させようなんて、ナンセンスですね。子供が社会科の道を選んだら、僕はおそらく、参考書から勉強の仕方まで全部教えたと思いますね。そしたら、今のようにはならなかったかもしれません。
 これおもしろいぞと本を紹介すると、たいてい息子の方が先に読んでいますね。おもしろい本を見つけて2、3冊出したら、1時間くらいして、これおもしろいねというんです。速読を勉強しているんです。文学作品をたくさん読まなきゃならない。論文を書くときは、膨大な量を読んで、記録を整理していく。特に、ドクターコースの場合は、原典にあたって、それがどこにあって、どういうふうになっているか、をまとめる。博士論文と同じですね。博士論文だから、新しい考えが出てくるかと思ったら、90%はデータの整理なんですね。それで、たくさんの本を読まなくてはならない。それで、速読の勉強をせざるをえなくてですね、やったらしい。わたしが4時間かかるところを彼は1時間で読める。今は本の話はしないことにしてますけど。
 2年くらい前になりますか、「正確な読み方技術」という本を息子は書いております。有田和臣といいますけれど。明治図書から出ています。国語の読み方で、正確に読むには読み方の技術がなければ駄目だ。私は、授業にも技術がいる。子育てにも技術がいる。と言っております。
 こういうふうに考えてもらうと、よくわかると思います。
 (黒板に書きながらの説明)これは愛情ですね。親の子供に対する愛情というのはすごく強い。教師も、学級の子供に対する愛情があります。それに対して、こっちの小さいものは何かと言うと技術です。親は、愛情があっても技術がないんですね。私自身を考えてみても、子供に対する愛情があっても、どうすればいいのかという技術がない。例えば、子供が考えていることを把握しようと思っても、愛情だけでは子供を把握できないでしょう。学級の子供を把握するためには、頭のカルテが必要ですね。ふつうカルテというのは、紙に子供のことを書いて、データを積み重ねて、「この子供はこうだ」「この子供の特性はこうだ」ということを把握していきますね。私は、そういうことをやる時代は終わったと思っているんです。そんな紙にいちいち書いて記録を残さなきゃならんようじゃだめだ。全部頭のカルテに入れるんだ。授業するときだって、机間巡視のときに紙を持ってチェックする人とかいるじゃないですか。わずか20人ばかりの子供をチェックして、この子供はこうでとか把握して指名する先生がいますね。あれは技術が足りない。自分のクラスの子供が、この問題を出したらこの程度できるということが、頭に入ってなくちゃいけない。そのためには、愛情と同じくらいの大きさに、技術を広げなきゃならん。そのために、今技術を勉強しているんです。愛情はみんな持っていますよ。ここにいる先生方はみんなある。ですが、この愛情と同じくらいの技術になかなかならない。ですから、どうなるかと言うと、このくらいの大きさの技術と愛情の車輪を動かしたら真っすぐ進まない。進化しない。だから、この大きさまで何としても技術を広げなきゃだめです。これが勉強なんですね。教師にとっては、子供を見る技術、子供を育てる技術、「この子供はこういう特性がある。この特性を伸ばせばいい。」という技術を体得していくことが大切なんですね。親の場合も、どうやってうまく我が子を育てていくか、というのは技術じゃないか。子育てのノウハウだと思うんです。
 それで、私の子供が私と議論しながら本を書いて、明治図書から出したんです。書いたのを江部さんが読んで、「これはおもしろい。本にしましょう。」と言ってくれたんですけれども。もちろん、筑波のドクターコースを出まして、筑波の高校で非常勤をしたりしたんですけれども。それから、代々木ゼミナール、河合塾で講師をしたり。あの塾の先生になるのも容易じゃないということがわかりましたね。河合塾の先生になるのに、もう20、30の試験がありますよ。面接までありますよ。でも、時給が4千円、5千円ですよ。我々が大学の非常勤に行って、1時間4千円だというのに、学習塾は5千円も出しますよ。まあ、大学院のドクターコースに入っているような人が、代々木ゼミナールや河合塾に行く。塾の先生になるために、受験勉強をしている。それで、筑波の後輩にどういう受験勉強すればいいのか、家に連れてきて教えてましたけどもね。それだって、受験のための技術でしょ。本を読むにも、本を読むための技術が必要だ。我々が、本の読み方で何か尋ねたら、答えがいくつにも分かれるような読み方は、正確な読み方じゃないのではないか。でも、本当に正確な読み方というのは、問い方にもよりますけれども、テストといっしょで問われたら答えが1つしかないような、何人でも同じ答えが出てくるような問いをつくる。これは、今までの我々の発問とは別ですよ。我々の発問は、1つ発問するとたくさんの多様な反応が出てくるようなものがいいなと思うんですけどね。そうじゃなくて、読み方を問うときには、例えば「桃太郎の鬼征伐の登場人物は何人ですか」と言ったら、桃太郎、鬼、猿、きじ、犬と決まるじゃないですか。「こういう問いかけをすればきちっとわかる」というような読み方が必要なんじゃないかなあ、と私は考えますね。
 私はだいぶおしゃべりなんですが、息子は本当にものを言わないですね。娘は、私に似ておしゃべりなんですが。兄妹二人を育てても、学級の子供を育てるのと同じだと思いますね。遺伝子がいっしょでも、本当に一人一人違う。自分の子供を通してそういうことを学んで、「学級の子供も一人一人違うんだ」ということをようやく納得できましたね。娘の方は自立して、家内が「私にさっぱり甘えない」と言うんですね。しかし、おもしろいことに二人の孫は、私と家内に本当によく甘えるんですね。よく家に電話をかけてきて、どういう言い方をするとおじいちゃんが喜ぶか、おばあちゃんが喜ぶか、ということを4歳にして知ってるんですよ。何か欲しいものがあるときは「おじいちゃん」、悪いときは「じーじ」と呼ぶんですよ。
 話はとびますが、もうすぐ成人の日ですね。私の娘がちょうど成人式を迎えた日に、近くのポストに手紙を出しに行ったんです。その店の前に、4、5人の女の子が立っていて、ちょうど成人式に行く前だったんですね。そのスタイルといい、着物といい、惚れ惚れするような美しさだった。「いやあ、よそのお子さんはきれいだなあ」と惚れ惚れしながら見ていたんですが、話している言葉を聞いたら、その汚いこと。とっても、着物や顔とは似合わないような言葉で話してる。そうしたら、あれだけきれいに見えた女の子が、途端に鬼ばばあに見えた。いやあ、そのとき私は本当にびっくりしました。言葉というのは人を醜くする。逆に、言葉というのは人をきれいにする、ということに気づきまして、帰ってすぐ娘に「お前は親に似て顔は悪いが、言葉くらいだけは気をつけてくれ。言葉がきれいだったら、顔が悪くてもきれいに見えるからね」と言った。私が娘に注意したのは、あとにも先にもそれ1回だけ。それが、20歳の成人の日の出来事でした。娘は、今でもそのことを覚えていて、言葉には気をつけているそうですけれども。
 私の子育て論をいろいろ申し上げましたが、役に立つようなことはなかったかもしれません。やっぱり、子育てと言っても結局は学級の子供といっしょですね。学級の子供は、叱るとかえって育ちやすい。でも、自分の子供の方が手を抜きますね。人様から預かった子供には、手を抜けないですよ。ところが、よく考えてみると、息子がここまでくるのに3つも大学に行って時間がかかったのは「あなたが相談に応じないからよ」と家内は言うんですが、まず私は相談を受けたことがない。まあ、人生は回り道と言いますが、手抜きをしたつけが回ってきたわけです。早稲田にそのままいればよかったのでしょうが、自分勝手に筑波に行ったりして、そのとき私がきちっとしておれば、もっと早めに道は開けたんじゃないかと思っておりますけれど。でも、人生すべて塞翁が馬でね、遠回りしたからいいこともありますし、近道したばかりに途中で落ちたりしますから、どっちがいいかわからない。死ぬときによかったなあと言えればいいかなあと思いますね。
 参考にもならない話をいたしましたが、どうもありがとうございました。

 

 

有田先生への質問
《質問》
 私も、今子育て真っ最中なのですが、先生がもう一度子育てなさるとしたら、子供にこんなことをしてあげたいなあ、というようなことが1つでもありましたらお聞かせ下さい。
《有田先生より》
  なるほど。子育ての真っ最中ですね。私は、時間があったら自分が子供に本の読み聞かせをしてあげたいですね。自分が作った話、自分で書いた話を孫のために作っているのですけども、そういう本の読み聞かせをしてあげたいと思います。それから、うちの娘は赤ちゃんがおなかにいるときから、しょっちゅう海外旅行に行ってるんですね。よく聞いてみると、娘が小さいとき僕が車でいろんな所に連れていったことがきっかけになってるようで。その遺伝子が娘にも残っていたんですね。その遺伝子の関係で、娘が暮れにサイパンに行ったんです。そうしたら、4歳になる上の子が「帰りたくない」と言って泣いて、たいへんだったらしいですね。あのきれいな海で泳いだら、誰だって帰りたくなくなるでしょう。それはやっぱり遺伝していますね。私は、子供が小さいとき外国へは連れていかなかったんですが、今だったら外国へ連れていって子供のときから英語を少ししゃべらせたいですね。私は、英語は全くだめですから、少しでも英語を覚えさせたいなあと思いますね。借金してでも行くべきですよ。でも、落ちないコースを選ぶべきですね。

 

《質問》
 私は新採2年目なんですが、今まで家族とうまく接する時間がとれなかったのか、気持ちのムラが多くて落ち着けない子供が私のクラスにいます。そういう子供に対して、我々ができることにはどんなことがあるのかということと、その子供の両親にどんなことができるのか、ということについて教えていただきたいと思います。
《有田先生より》
 いい質問ですねえ。私が筑波にいたとき、お父さんが転勤になってもお母さんが絶対に一緒に行かないという例がありました。一緒に行って戻ってきても、筑波の学校には戻れないんですよ。せっかく入った学校だからというので、お父さんが単身赴任したんですが、子供は情緒不安定になりますね。6年生の子供だったんですが、あるとき様子がおかしいので、その子供を廊下に呼んで「おい、どうしたんだ。様子がおかしいぞ」と言うと、「えっ、わかるんですか。実はお父さんが転勤になったんです」と言うんですね。「でも、そんなことぐらいでどうして様子がおかしいんだ」と言うと、「お母さんがどうしよう、どうしようと言ってばかりいるので、ぼくも何だか落ち着かなくて」と言うわけです。6年生ぐらいでこうですよ。2年生だったらもっとたいへんですよ。お父さんが大阪に転勤になったとき、荒れた子供がおりました。その子供が荒れたから、おかしいと思って話を聞いたら、お父さんが転勤になったことを黙っていたんですね。「お父さんがいないんだから、しっかりしないと」と言ったあと、「先生がお父さんの代わりだから、お父さんに言いたいことは何でも先生に言ってね」とその子供に伝えたんです。それをこっそり本人だけに伝えるわけです。そういうことを幾つかやってきまして、成功したと思いますね。
 それから、お父さんとお母さんが離婚する例もありましたね。お父さんはお医者さんだったのですが、もう子供は荒れちゃってたいへんでしたね。私はその子供のお父さんに会いまして、いろいろ話をしたんで
す。お父さんは「好きな人ができたんだけども、自分の子供へ対する愛情は変わらない」と言うわけです。そこで「ここで離婚したら子供さんは附属中学へ行けないですよ」と脅かしたんです。そんなことは全然ないのですがね。「子供さんを附属中学へやりたくないですか」と言うと、「親としてやりたい」と言うわけです。「じゃあ、子供のためにもとのさやにおさまってほしいなあ」と言ったんです。そして、いよいよ6年生になって「どうですか。附属中学へ行けないですか」と念のために電話してみたんです。もともと行けるんですが、嘘も方便ですからね。すると、「実は、もとのさやにおさまることにしました」とお父さんが言うんですね。その話を娘にしたら、娘はすごく感動しましてね。今は、その子供はお医者さんになるために、アメリカに留学しています。自分の担任している子供に本当に愛情があって、自分はその子供のために何ができるかなあということを考えていると、親でもきいてくれるものだなあと思います。
 それから、小学校の先生でも、保健の先生ともっと連携していく必要がありますね。保健の先生は、我々が知らない情報を結構知っていますね。ある子供が何か悪いことをすると、「あら、やっぱり」なんて、どこかでそういう兆候がでていますね。ですから、保健の先生と担任の先生が何でも言える人間関係でなければいけないし、担任のほうが積極的に子供を取り込んだら、その子供のアフターケアをする必要があると思いますね。